夫婦で働くこと・生活すること

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たまご

アメリカにいた時。 幼稚園の時の話。 4月のイースターに先生が籠いっぱいに卵を持ってきた。 卵といっても、生卵ではなく、木の上に塗装がしてある卵型の小物たち。

「きれいだから、みんなに見せようとおもって持ってきたの。一つ選んでいいよ。」 ということで、クラスのみんなが飛びついた。 私も一つゲットして、ポケットの中に入れる。 その卵は1日みんなへ貸し出してあげるという意味だったのだけど、 どういうわけか、回収のタイミングを逃してしまって貰えるものだと勘違いしたまま家まで持って帰った。

貸し出しだったという事実を知ったのは次の日のこと。 「昨日の卵、キレイだったでしょ。あれは友達の大切な卵で、一日だけみんなに見せようとおもって貸してもらったの。昨日友達にお礼をいってかえしたわ。」と先生。

今考えればその時すぐに先生に言えばよかったんだけど。 なんとなく、本来返すものを持って帰っちゃったことへの罪悪感と、盗んだと思われたらどうしようとか、なんとも取り返しのつかないことをしてしまったという気がして。 4歳の私は家に帰ったらすぐに、卵をタンスの引き出しに隠したのでした。

3か月後、母親に発見されるんだけど、とっさに隠そうとする私にさすがは親だよね。 「なにこれどうしたの!?どこからもってきたの!?」って質問をされる。

その時混乱して上手く言葉にならなくって。何処から説明したらいいかもわからなくって。どうにもこうにも行かなくって泣きだした。

一連の流れを見ていたら、別に悪気がなかったわけじゃないとわかってもらえたと思うし、 ちょっとしたタイミングのズレと誤りからこんな結果になっちゃったわけで。 でもこの状況だけみた母親に、別に盗んだんじゃないとか、やましいことがあったわけじゃないとか、 誤解を解くまでにすごい時間がかかった気がする。

なにがいいたいかというとさ。 人へなにかを伝えるときって。 大きい事であればあるほどに。 そこまでに至った考えや思い、背景や経緯なくしてあんまり人に伝わらないっていうこと。 逆に言うと、人から伝えられたものってそこの結論に至るまでの考え方が何かしらあるってことでもあるよね。

誤解はちょっとしたことから始まるもの。 ちょっとしたことから嫌いとか憎しみとか、争いとか。 それが発展するとつぶしあいとか殺し合いとか戦争とか。 根底にはやっぱり、話し合うと同時に、聞く耳を持つことが必要なんだと思うのです。 誤解じゃない争いももちろんいっぱいあるけど、 本来分かり合えるものであるなら、 どっちか一方かけちゃうと、やっぱり上手くいかないよね。