夫婦で働くこと・生活すること

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ラオスとタイから帰国して思ったこと

ラオスとタイからの旅を終えて、一つ気がついたのは、

ものの作られる過程や、それがどういう意味があるか

というのを意識するようになり、

もの自体への興味が以前より強くなったということ。

日本はたしかにクオリティが高いものが揃っている。

やはり、タイやラオスで作られたものの精度をみると、

日本がさすがだなって思うものも多かった。

でも、私のように一般の人から見ると、

日本にあるひとつひとつのものがあまりに性能がよく

作られる過程が複雑化されているがために、

単純に面白いとか、やりたいとか思う以前に、

なんだか難しいものに感じてしまったり、

到底自分には関係のないことと思ってしまっていたことに気づかされた。

だから、生活の一部として行うような料理でさえも、

既に何グラムの何を入れると出来上がったレシピをみたり。

文字に頼ってばかりの毎日。

その料理本やインターネットのレシピはまたよくできていて、

手順通り決まった材料を入れれば

間違いようがないし、それなりの料理はできるのだ。

しかし、なんで今その素材を入れたのだということは意識もせず、

なにかを入れるという意義を見失っていた気がする。

このままでは料理が上手く成っているというよりは、

辞書引きが上手く成っているということにすぎなかったのだ。

当然辞書に頼ってばかりの毎日では、根本的に料理が上手くなるはずもない。

なにかを作るために成長するには、その中で醍醐味を見いだすことではないか。

醍醐味というのは、一つの作業をなぜやるのかという

原点を知る事で見つけることができるのではないか。

そして、創意工夫ができたり、自分なりのアレンジや発展が楽しめる。

ふと、砂糖を紅茶にに入れる時の事を思い出した。

砂糖を紅茶に入れる。

とても単純なことだけれど、自分なりの甘さをみつけ、

糖分や甘いということを考える立派な作業である。

自分はこのくらいが好きだな、とか。

あの飲み物はこんなに入っているな、とか。

あの人だったらこのくらいが好みかな、とか。

考えていたり、実際に自分でやってみると楽しい。

上手く行かなかったりすると、なんでなのか、と考える。

そして、それもまた楽しいのだ。

料理やものをつくるというはそれの延長のようなもの。

なのに、なぜ日本にいる時はその楽しさを表面的なことでしか捉えられなかったのだろう。

おそらく、どこから手をつけていいのかわからない、

というのがあったかなのかもしれない。

周りに出回っている料理やものはあまりに完璧すぎて。

学ぶにも手法が多すぎて。

なにをどうすればいいのかがわからなくなっていたのかもしれない。

基本と言っても基本の手順も多く、楽しむことをそがれるような感じがして。

面白さを見いだせなかったからかもしれない。

タイとラオスでは、精度こそ高くないけれど、素朴な素材で精一杯工夫し、

楽しく物作りをしている様子に刺激を受けることがてきた。

そこには、複雑な話はない。

単純な方程式によって組み込まれた手法しかなかった。

そして、単純な方程式によって行われる作業は、

いちいちなにかを読んで確認するような回りくどいことはしない。

時に人にきくかもしれないけれど、基本がわかればあとは感覚で動き、

失敗の中で覚えて成長していく作業を繰り返しているように思えた。

ある意味、限られた条件の中のほうが気づく事が多いことを学んだ。